批評  
「現実から排除することの危険性」
クリス フジワラ(評論家・2005年山形国際ドキュメンタリー映画祭審査員)
「チーズとうじ虫」は、多くのドキュメンタリー映画同様、監督自身が登場人物として関わっている。そのため制作者は、どのように自身を表現すべきか、また、映画の中でほかの要素を台無しにすることなく一人の人間を描き出すにはどうしたらよいか、という問題に直面する。そして、慣習や良識、倫理など、敏感な価値観とも向き合うこととなる。なぜなら、監督である加藤治代が彼女の母親の死を記録したものだからである。

映画の中で、監督の存在は大きく感じられるが、実際は控えめなものである。というのは、彼女は主に声を通して映画の中に登場し、母親や祖母に話しかけるからだ。彼女の声は常に優しく、愛情に満ちている。彼女が厳しい口調、激しい抗議にも似た調子で口をきく瞬間が一度だけある。幼い甥が、通夜で安置された母親の亡骸を跨ごうとした瞬間である。彼女の声を聞き、その子は怯えた。加藤はすぐに後悔し、その場の雰囲気を和らげ、家族に安らぎを与えたのである。

見た目には、監督の存在は主としてほのめかされるだけである。カメラの前に物を置くために現れる手や、画面の外にある顔を見つめる母親の目線を通じて、監督の存在が感じられる。監督はそうやって完全には姿を見せることなく、映画に登場する。そして、カメラも彼女と同様、その場に自然に存在する。カメラは侵入者や攻撃者たることをやめ、"リアルなもののコレクター"として機能することをやめる。カメラはむしろ、加藤監督自身が向き合う現実を記録することを可能にする手段である。

カメラはまた、優しく愛に溢れながらも、絶えることのない彼女のプレッシャーをぶつける手段ともなっている。カメラは、病気と闘う母親を助け、生に執着するように懇願し、さらに監督の内面をも露呈する(最も印象的なのは、うじ虫が樽にむらがるシーンであるが、そこでの加藤の固定のまなざしからはついに恐怖が消え去っている)。また、カメラは現実の出来事をつぶさに記録し、それらの出来事が繋がっていることを突き止め、その一貫性を祝福しようとしている。この映画は、その一貫性とは家族によってのみもたらされるものだということを伝えている。

この流れを止め、消し去るのが、「チーズとうじ虫」というタイトルを思い出させる真っ白な映像である。はじめは、その白を観るのが辛く、痛々しくも感じるが、この映画を構成している反復性(つまり、タイトルごとに区切られたセクション)により、私たちはその白の持つ痛みに次第に慣れていく。映画の最後に、加藤はその白い映像を長く見せることにより、母親の死や彼女自身の苦悩や悲しみを減らし、この映画を観、受け止めた私たちに考える時間を与えている。白い映像によるイメージの喪失は、失ったものをより際立たせる効果をもっている。

この映画の最終セクションはきわめて大胆である。加藤は映画でこれまで映し出された映像、つまり生前の母親の映像(たとえば、彼女が熱心に三味線の練習をするシーン)を反復する。最初に見たときは新鮮で、希望と悲しみに満ちていたそれらの映像は、再現することによってその新鮮さが少なからず失われている。(反復シーンは母の死後にとても実際的な理由から生まれたもので、祖母に亡き娘を思い出させるための素材となった)。愛する者を失った後も、残された者たちは生きていかねばならないということは、どうしても裏切り行為になってしまう。映像の反復は、最もダイレクトな手段となって、この事実を見る者に思い出させるのである。

この最後のセクションはまた、もう一つの裏切りをも表現しているかもしれない(私はこの解釈に固執するつもりはないが)。ビデオは瞬間をとらえ、労力も不要な記録媒体であるがために、逆に現実を喪失してしまうおそれがある。現実の喪失は忘却よりも恐ろしい。しかし加藤は、この危険性を見せつけたり、批判したりすることはしない。むしろ、哀悼のための確固たる手段としてビデオを使用することにこだわっている。彼女のこの姿勢は映画において適切であり、満足できるものである。なぜなら、母親の死に至るまでの長い描写において、彼女はすでにビデオが有する危険性を克服しているからである。その危険性とは、私が先に遠まわしに述べたように、監督の現実世界からの(誤った)離脱のことに他ならない。


Chris Fujiwara
クリス・藤原
©FIPRESCI 2005
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2005年山形国際ドキュメンタリー映画際・小川伸介賞・国際映画批評家連盟賞 受賞     
2005年ナント三大陸映画祭ドキュメンタリー部門最高賞(金の気球賞) 受賞
     
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